side F
その日は大切な日だった。
そんな必要がなくなった今でも折りあるごとに思い出し、その日を数えて。
でも・・・だからこそ眠ってしまうつもりだった。すでに新しい生活が始まって
いる自分にとって睡眠は不可欠な事だったし、この機を逃せばサイクルの乱れた今
の生活に支障をきたす事はわかっていたから。
ベッドに横になれば、最近眠れていないこともあって引き込まれるように眠りに入った。
・・・そしてそのまま朝を迎えられるはずだった。
“!”
自分が出した大きな声に不意にその眠りは妨げられた。
時計を見ればそれほど時間はたっていない。でも何時間も叫び続けていたかのように、
ぐったりと倦怠感がのしかかってくる。そして朝にはまだ程遠い。
締め付けられるような胸の痛みに喘ぎ、寝返りを打つと、目じりからすっと冷たいしずく
が伝わる。
今まで見ていた夢の名残りに苦笑し、膝を抱えてシーツの中で丸くなると気持ちを落ち着け
るために深いため息をついた。
未だに彼のいない事実は細かい針のように自分を刺し続けている。
ふとした瞬間にも彼を思いだし、彼の事を思う。忘れなければ、と思えば思うほど鮮明に浮
かび上がってくるのは彼との思い出。
・・・どうして目覚めてしまったんだろう?
辛くて、妨げられてもよい眠りではあったけれど・・・彼に会えたのに。
ふとそんな事を思ってしまった事に自嘲の笑みが浮かぶ。・・・こもった熱と肌に貼りつく髪
の感覚が不快になって、のろのろと身体を起こせば、ベッドサイドに置かれているリモコンが目
に入る。
無意識のうちに持ってきてしまったのだろうか・・・いつもならテーブルに置いてあるそれが自
分の傍にあることに苦笑する。
試合、どうなったんだろう・・・?
忘れようとしていた事がふと、脳裏をよぎった。
そして同時に先ほどまで見ていた夢が浮かんできて、落ち着きかけていた胸の鼓動が一気に激しく
なる。
・・・今日はいつもの試合と違うという事が意識から離れないせいだろうか?
いつもならうち勝てるはずのその誘惑が不安と共に自分を激しく揺すぶる。
もう終わっている頃だろうな。
時計を見上げれば、試合開始時刻からはだいぶ時間が過ぎている。
しばらく躊躇していたが、不安とそれに伴う動悸はとどまる事を知らない。
結局リモコンを取り上げ、これもしばし躊躇した後、テレビのスイッチを入れた。
軽い接続音とともに部屋に満ちた光。それが思いがけず闇に慣れた目には眩しくて瞳を閉じる。そ
の耳に飛び込んできたのは・・・人々のどよめき。
「・・・あ」
・・・ゆっくりと開けた瞳に飛び込んできたのはすっかり終わったと思い込んでいた場面だった。
どこまでも青く、抜けるような空。人でびっしりと埋まっているセンターコート。そして・・・ま
だ試合は続いていた。その事実にうろたえて、テレビのスイッチを切ろうとしたその手が・・・止
まる。
大きく映し出されたスコア・ボード。
慌ててベッドから飛び出し、テレビの画面ににじり寄り、それを見て、息を呑む。
「うそ・・・」
手にしたリモコンが落ち、床にあたって乾いた音を立てる。
間違いなかった。・・・その試合は彼の圧倒的不利だった。
彼の実力からすればとっくに終わっていると思った。むろん彼の勝利で。
それが世界の頂点に立つ戦いでもそう信じて疑わなかった。
が・・・
ふっと画面に大写しになる彼の顔。
その表情にはいつもの覇気はなかった。疲れが色濃くにじみ、焦りの色さえ見える。
夢の中同様、いや、それ以上に追い詰められた、苦しそうな顔に息を呑む。
いつもであれば彼はどんな苦しい状況でも、余裕の笑みを湛え、その苦しみさえ楽しむように戦っ
ていた。
それなのに・・・
「・・・越前・・・」
・・・胸の内でしか出すことのなかったその名前が久しぶりに唇からこぼれた。
幾多の試合を勝ち進み、日本を出て、世界へ羽ばたき、どんどん君は強くなっていった。
試合に臨むその姿はどんな時よりも光輝いて、眩しいくらいで。その輝きを増しながら、高みに上
り詰めていく彼の姿を傍で見られる事は自分の喜びでもあり、誇りでもあった。
テニスをする君が好きだ。
まっすぐにボールを見つめる視線。テニスに注がれる情熱を秘めた瞳はまさに宝石のようで。
・・・でも、自分からだんだんと遠のく背中に徐々に芽生え始めた感情。そして自分のおかれている
状況が重くのしかかり始める。そして、気づく。自分にはもう出来ることは何もないのではないか。
・・・ただひとつのことを覗いては。
“越前選手、依然苦しい展開です”
“調子を崩しているという話は入ってきていませんでしたが”
“プレイスタイルの変化が大きな影響を及ぼしているのでしょうか・・・”
解説の声がひどく遠く聞こえ、その代わりに彼の声が次々に耳に蘇ってくる。
“勝てるよ。”
“ 勝つよ。”
“きっと勝つ。”
“どんな時でも、どんな試合でも負けたりしない”
そして彼が自分に向けた子供のような笑み。
“・・・だって、オレにはあんたが・・・幸運の女神がついているからね。”
自分が彼と離れて以来、彼の試合スタイルは変わった。
いっそうその強さに磨きがかかり、一切の妥協がなくなった。
何の恐れもなく突き進むそのテニススタイルにファンはより増した。
センターコートにいる観客の大半はそんな若き獅子のプレイに魅了されている人々だ。
そのプレイは自分と離れて生まれたもの。
自分と引き換えに彼の強さは最高のものとなった・・・そう信じていた。信じたかった。
それなのに・・・
「・・・越前、越前、越前!!!」
・・・気がつくと画面にすがるようにして、彼の名前を狂ったように呼んでいた。
「勝ってよ・・・」
君から何千キロも離れたこの場所で。今更届くはずもない熱を込めて、拳を握り締めて、
声を限りに叫ぶ。
「勝ってよ・・・お願いだ・・・」
何もない自分にただ一つ残された選択肢。彼を思い、だからこそ選んだ。
「勝ってよ・・・僕のためにも。」
見せて。君の輝きを。そして照らして?その光で。君を愛するみんなを照らすように。
もう何も残されていないこの僕も・・・
“あんたはオレをひとりにするんだ?”
君にその思いを告げた時、君は初めて大声をあげ、僕に詰め寄ったね。
“これまでの成果も君が君の力でひとりで勝ち取ってきたものだ。僕は何もしていない。”
その潤んだ瞳に負けそうになりながらも、僕は君に説いて聞かせた。
“ ひとりなんかじゃない!いつだってあんたはオレの胸にいるし、一緒に戦ってくれてる。”
”越前・・・“
“あんたが一緒でなければ勝ちなんて何の意味もない!それにあんたの為ならオレは・・・”
“君はもう僕だけの越前リョーマじゃないんだ!”
その言葉を激しく遮った自分。
君のテニスを世界中の人が愛してる。
僕も世界中の人と同じ、テニスをする君が好きだ。テニスをし続ける君が好きだ。
テニスの神様がついている君をどうして独占なんかできる?
そんな事はわかっていた。わかっていたはずなのに・・・
“僕は・・・ふたりでいながら、ひとりでいる事に疲れてしまったんだ・・・”
戸惑い、幼子のようにうろたえる君に、血を吐くような思いで言った・・・真実。
君を置き去りにして臆病にも逃げ出した僕だけど。
許されないのは判っているけれど、今更伝わらないのもわかっているけれど。
でも、今も変わらない思い。それが抑えようもなく込み上げてくる。
「・・・愛してる・・・」
唇を突いて出たその言葉の甘さと苦さ。
“オレをひとりにするんだ?”
夢の中の君と画面の向こうで戦う君、そしてあの日のセリフがだぶる。
君はひとりじゃないよ。支えてくれる人達が、何より君を愛している大勢のファン
がいる。
“あんたがいなけりゃ勝ちなんて意味がない!”
・・・僕はここにいるよ。ずっと、ずっとここにいる。
「越前・・・愛してるよ・・・」
その言葉は胸を裂き、その痛さに涙がこぼれる。でも、抑えることのできない感情。
・・・愛してる・・・
“よく今の打球を返しました!スーパーショットです!!”
弾かれたように顔を上げれば、興奮した口調の解説とともに再び大写しになる彼の顔。
・・・その表情は一変していた。汗まみれで苦しそうなことには変わりないが、そのま
なざしには確実に光が戻りつつあって。
“越前・・・”
彼は巻き返していた。今までの苦戦が嘘のようにショットやボレー、サーブが決まり始
める。
“調子が出てきましたね。”
“何かふっきれたんでしょうか・・・”
驚きの混じった解説を聞きながら今度は目を逸らすことなく画面を見る。
それは久しぶりの観戦だった。
気になりながらも、必ず彼は勝つ、そう信じて、ずっと見ることを封印していた彼の試合。
どんな場面にありながらも変わらず、力強さと輝きを失わないその姿を思いながら。
・・・やっぱり彼だ。
昔見たままの、自分の愛したそのままの姿で戦う彼に、長い事笑う事を忘れていた自分が微
笑んでいることに気づき、胸にわきあがるその思いを、浮かんでくる涙と共に噛み締める。
やはり自分は彼のテニスを・・・彼を愛している・・・何もかもを終わらせた今でも。
ふわり、と上がった黄色いボールが次の瞬間、思い切り振り切られた真紅のラケットに捕らえ
られ、青い空に軌跡を刻みつける。
その素早さに一歩も動けなかった相手の足元をバウンドしてインパクト音と一緒に高くたか
く跳ね上がるボール。
・・・それは、彼の優勝が、頂点が決まった瞬間・・・
一瞬の間の後、割れるようなどよめき、歓声に包まれた会場。
君は・・・やり遂げたんだね。
周囲の歓声に応えるかのように軽く左手を上げた彼の姿が大きく映し出される。
少し痩せたのか、鋭さを増した彼の表情。でもそれがもともと持っていた精悍さをいっそう際立
たせ、王者と呼ぶに相応しい雰囲気をかもし出している。
“4大会制覇おめでとうございます!”
“・・・ありがとう。”
いささか興奮口調のインタビュアーの質問にも、落ち着いた答えを返している彼は、すでに頂点を
極めたものの風格が漂っていて、胸が熱くなる。
おめでとう・・・越前。そして・・・ごめん。
・・・この瞬間を見る事は自分には許されないことだと思っていた。
でも・・・やっぱり見たかった。
夢の頂点に立った瞬間の君の勇姿を自分も望んでたから。
ずっと、ずっと・・・
“この喜びを誰に伝えたいですか?”
“・・・・・”
“越前さん?“
“・・・オレを・・・ここまで導いてくれた人に・・・大切な人に。”
きっと、見てくれていると思うから・・・そう言って画面の向こうの若い王者が浮かべた穏やかな笑
みは、自分の知らない笑顔。
その笑顔に時の流れを感じ、そしてこれから流れていく時を思い、そっと瞳を伏せる。
・・・夜が明け始めている。
いつか白み始めた空に遠く離れた君を思う。
離れていてもこの空は君の元まで繋がっている。そしてどんなに離れていても、僕はいつでも君の成功
と・・・幸せを祈っている。同じ空の下で。今も変わらない気持ちと共に。
愛しているよ。
愛している。
愛してる・・・
なぜかサイト立ち上げ第一作は別れ話(苦笑)・・・でも一度書いてみたかったんですよね〜
愛し合いながら別れるって設定はものすごく好きだったり・・・でもこの二人は幸せにしたいですけどね